勉強はさせられるものではない
皆さん、こんにちは。
塾長の江田です。
どんな時代も勉強しろ、勉強しろと親や教師に言われてウンザリしている子供たちっていますよね。
というかほとんどそうですよね。
私も学生時代ウンザリしていた子供の一人でした。
私は前から思っているのですが、勉強はさせられるものではなく、自発的にするものだと思っています。
子供に理不尽と感じられると意味がなくなる
大学を選ぶ基準って色々ありますよね。
例えば将来は医者になりたいので医学部だ!とか、公務員になりたいので法学部にいきたいとか。
私はどういう基準で選んだかというと、なんやかんや理由があって法学部と決めて偏差値が高い順に資料請求します。
で、シラバスを見て体育が必修のところを除外して適当に出願するという手順です。
自分で書いていても昔の自分の正気を疑うほど頭がおかしい選択の仕方ですよね(笑)
それほど体育の授業が嫌いだったのですが、振り返って考えてみると体育の授業ってなんの意味があったのかわかりません。
いや、好きな人にとっては良かったのかもしれませんが、嫌いな人にとっては退屈な勉強の息抜きにすらなっていなかったのですよ。
小学校の代理の担任が人気取りのためなのか、勉強の時間をドッジボールの時間にしやがった恨みは忘れない(笑)
私は運動音痴に加えて極度の内向的人間なんですが、そういう人たちって基本的に自分の成果物を誰かにみられることを嫌う傾向があるんですよね。
この点は外交的な人はよく知っておいてあげると良いです。
悪意がないとしても「見せろよー!」的なノリを敵視しますので(笑)
というか、本当に辛いことなのでやめてあげてください。
なので、下手くそな動きを見られたりするのも極端に嫌だったこともあり、体育の授業が苦痛で仕方なかったんですね。
好き嫌いは置いておいても、少なくとも私が公立の小中高で受けてきた体育の授業は果たして意味があったか疑問です。
というのも、私は体育の授業でこういう練習をすると動きがよくなるよ、とか、こういう運動が健康効果や認知機能を高めるからやってみよう、とか、複雑な運動が苦手な子向けに器具を使った筋トレの仕方を学んで体重や体脂肪の変化の記録をつけてみよう、みたいな話はほとんどなかったんですよ。
基本的に特に指導もなくサッカーの試合をやって終わり、バスケの試合をやって終わり、でんぐり返しして終わり、走らされて終わり。
体育が好きな外交的な子たちにネタにされて終わり。
ただただ、理不尽。
それでも出来るだけ休まず授業には参加していましたが、結果は以前よりも運動が嫌いになり、完全なインドア人間となりました。
そんな授業をやっていて幸せだったのか体育教師たちよ(笑)
私だったら運動は人生にとってプラスに働くことが多く、健康に良いだけでなく頭もよくするかもしれないので、嫌いな人にこそ楽しく運動をしてもらうための工夫をすると思いますね。
授業が理不尽だと受け取られた時点で、その子供の人生の中で無意味な時間になってしまいますから。
どうせだったら意味のある時間を過ごすべき
こういう体験があったので、私は教育というのはただ教えれば良い、勉強させれば良い、とは考えていません。
勉強をする経験が人生を豊かにできるよう、常に人生にとって意味があるものにできるよう、それをどう伝えていこうと日々考え続けています。
例えば理解なき単純な暗記のみに頼っている子には、暗記の負担を軽減する考え方を身につけてもらいます。
急がば回れのように、きちんと理解が伴っていた方が結果として覚えている確率が高まる上、きちんと理解している知識の方が実際に役に立ちやすいからです(精緻化と呼んだりします)。
また、きちんとした理解の仕方を身につければ、新しい知識でも効率よく学んでいけます。
新しい知識を効率よく学べれば、成長力著しい社会人にもなっていけます。
良い塾を選ぶ基準として、教科の指導以外にどんなことを身につけさせてくれるのか?というのも考慮に入れると良いかもしれませんね。